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Khalidが語る「こんな状況でした」……その5

その1
その2
その3
その4
その5……この記事

拘束された事情が,拘束された当人の口から語られました。Khalid blogの30日記事より:
http://secretsinbaghdad.blogspot.com/2005/07/i-found-myself.html

とても長いので,何回かに分けて投稿しています。

Saturday, July 30, 2005
2005年7月30日(土)

I found myself...
こんな状況でした

……前の記事(その4)の続き……

僕がムハバラトの拘置所から解放されたのがほかの人たちより早かったのには,家族の尽力が大きな役割を果たしました。腐敗した体制というのはどれでも同じですが,しかるべき人物を知っていて,しかるべき「贈り物」をすれば,待遇は改善されます。ですがうちの家族は僕が潔白であると信じていたので,判事には何も払っていません。弁護士をつけるよう手を尽くしてくれたのです。ですが実際にはそれも実現はできませんでした。僕が釈放されたのは無実潔白だったからであり,また,判事の目の前で自分自身を弁護することができたからです。

でも問題があります――ほかのイラク人たちはどうだろうか,という問題が。あのような場所を出るためのお金も力もない人たちは? 家族や友人知人から引き離され,やってもいない犯罪で告発されている無実の人たちは? 彼らのために立ち上がるのは誰なのか? 人権はどうなっているのか? 市民権(公民権)は? 人道は?

拘置所にいた人たちのことを,こういった事例のサンプルとして,数例書きます。この人たちやその他拘束されているイラク人たちが,安全に家に戻ることを願っています。そして,家族とともに,米国政府やイラク当局に対し,イラク人の拘束という状況を改善するよう要請する取り組みをしていきます。自分の居場所について家族に知らせる権利はあって当然だし,拘束されたら速やかに,尋問や拷問を受けずに,判事の前に出る権利があって当然だし,法廷では本物の弁護士についてもらうのが当然です。少なくとも,自身の嫌疑は知らされて当然です。

フィラス(Firas)の場合:
26歳で色白のこの男性が,野菜などを買った袋を手に持って通りを歩いていたとき,1台の車が米軍車列を攻撃した。当然の反応として彼は逃げ出したが,警察は彼を追尾し捕らえ,いすにしばりつけて7時間連続でパイプで殴打した。彼が米軍やイラク警察を攻撃したと自白しなかったので,捜査官らは,この人物は拷問を耐える訓練を外国のテロリスト・キャンプで受けているに違いないという報告書を書いて,彼をここに送った。ここであればより専門的な尋問官がいると考えてのことだろう。

モハメド(Mohammed)の場合:
肌の色の黒いこの23歳の男性は,非常に貧しいエリアで非常に貧しい伝統的なカフェで働いていて,非常に頭が鈍い。彼は文を組立てることも難しいくらいの知能だ。一応の読み書きの能力はあるが,お茶やコーヒーを出すこと以外にモハメドに期待できることはあまりない。1分も一緒にいれば,彼の中身は6歳児だとわかるだろう。毎日鳥さんが飛んできてお母さんがどうしているか話をしてくれる,と彼は考えている。母親がモハメドの唯一の身寄りだ。尋問の際,彼らはモハメドに「お前,8人殺したのか?」と尋ねた。モハメドはこう答えた――"sayyidi ya 7aras wa6ani ya kharyan istor 3alena"だってさ,笑っちゃうよね。(これは「僕? 国家警備隊なんか殺してない,そんなことしてるわけがないでしょう,面倒なことに巻き込まないで」という意味で,英語にすれば【訳注:そしてそれを日本語にすれば】意味は通るのだけれど,アラビア語では何ともおかしくて,これを聞けばそれだけでこいつ正気じゃないなと思える。)

彼の働いているカフェのオーナーが,ドラッグでハイになった状態で,モハメドは警官4人と国家警備隊員4人を殺したと通報した。【そして彼は逮捕された。】

8人を殺した容疑のかかっているモハメドを,僕たちは「モハメド・ザ・ウルフ(狼のモハメド)」と呼んでいた。ははは。少なくとも僕が釈放されるまではこれが彼のニックネームになっていた。

彼がどうなるかは神のみぞ知る,だ。

モハメドの場合,ひとりの人間を投獄するのに必要だったことといえば,匿名で電話をかけてこいつはテロリストですと主張するだけ,それで一件落着,そいつは拷問され45日間投獄される。そして「密告者」はこの期間に法廷に出て,間違いありません,この人物はテロリストですと言うだけでまたまた一件落着する,そいつは法的にテロリズムで起訴され,その先死ぬまで獄中で暮らすか,あるいは処刑されるかもしれない。あるいは釈放されるかもしれない。それを決めるのはひとえに判事にかかっている。あるいはCIAに――後で知ったのだが,CIAは同じ建物の上の階を使っていて,そこから命令が来る。

マイサムとナソム(Maysam and Nathom)の場合:
20代の兄弟で非常に貧しいが,目を見張るくらいの美形だ。もしアラブ版ハリウッドがあれば,この兄弟はきっとトム・クルーズとブラッド・ピットになってるだろう。

投獄されている間,僕は2度泣いた。1度はナソムが尋問を終えてトイレに来たときだ。僕はトイレに入っていたのだが,彼が激しく泣き始め,あいつらがあんまりひどく殴るから,兄が300人殺して車も何台も盗んだと言わざるを得なかった,と言った。

ナソムがトイレに入ってきたのは,かれらがマイサムにこれらの犯罪を自白させるために拷問し始めたときだった。僕は房に戻り,数分間泣いた。ひどすぎる。あまりにアンフェアじゃないか。

その夜,僕たちはそれをネタにジョークを言った。僕たちはみんな「テロリズムの専門家」ってことになっているよね,1本の刀で50人まで殺せるよね,とあらば,マイサムはどんだけ刀を使ったんだろう,それともチェーンソーでも使ったのか? じゃなければ自分の手で300人を殺せる人間なんかいるものか,って。

そう,僕たちは,拘置所で,そんなジョークを言った。こんなに馬鹿げた状況であれば,ジョークにすることを覚えてしまう。

尋問官はナソムに「じゃああいつは300人殺したんだな?」と言った。
「はい,その通りです」とナソムは答えた。尋問官は供述を書き取った。
「で,オペルの車を盗んだんだな?」
「はい,その通りです。」
「黄色いやつか?」
「はい,その通りです。」
すると尋問官はペンを置き,「きさま,この大嘘つき,戦争以来2年以上になるが,俺は黄色いオペルなんか一度も見たことがないぞ」。
(これは本当。どういうわけか,イラクにあるオペルはグレーばっかりで,中には黒とか青のもないことはないが,いずれにしても黄色のは皆無!)

ナソムは逆さまにぶら下げられて殴打され,そういう尋問が行なわれた。

僕は釈放されたが,彼ら兄弟はまだ獄中だ。

アブー・カマル(Abo Kamal)とその甥たちの場合:
アブー・カマルはある部族のシャイフである。友人と夕食の約束をし,よく知られている警察署の前で待ち合わせをすることにした。アブー・カマルと甥たちは,ハザードランプを4つ点灯させ,車内の明かりもつけて,警察署の正面の路肩に停車した車の中で,友人を待っていた。すると警察署から数名の警官が出てきて彼らを逮捕し,男性を1人殺害した容疑をかけた。僕が釈放されるまで,アブー・カマルは殺害された男性の名前も,いつどのように殺害されたのかも言われていなかった。甥たちも同様。

アブー・アイイド(Abo Ayid)の場合:
湾岸地域などでは,人を「アブー・某」と呼ぶ場合の「アブー」は「~の父親」という意味ということはご存知ですよね。例えばうちの父の場合は長男のライードの名前を使って「アブー・ライード」となります。長男の名前がジェームズだったら,「アブー・ジェームズ」です。
ここまでよろしいですか?

アブー・アイイドというのは,ごくまれに,結婚して長く経つのに,何らかの理由で子どもがいない人を呼ぶときにも用いられるニックネーム。というのは,人を名前で呼ぶのは礼儀にかなったことではなく,「アブー・某」と呼ぶのが正式で敬意のある態度だから。だから,子どものいない男性のことは,「アブー・アイイド」と呼んでください。
ここまでよろしいですか?

アブー・アイイドは投獄されて3ヶ月になる。彼は何度も拷問されていて,手の指の爪ははがされ,足の指先は砕かれている。誰かが,「アブー・アイイド」という名前はテロリストの名前みたいに聞こえると思ったから,彼はひどく殴られた。テロ集団のリーダーかもしれない,とにかくそう聞こえる,だから拷問した,自白するまで解放しない,グループのほかのメンバーの名前を言え,資金源を吐け,などなど……。

カソム(Kathom)の場合:
肌の色の黒い40代のこの男性は,夜遅く,政府系の建物のところを通り過ぎた。彼は酔っ払っていた。しばらくしてその建物の中で爆発があり,警察は建物から遠くないところを歩いていた彼を捕まえた。そして,言うまでもないことだが,彼を丁重に扱いはしなかった。

……などなど,悲しい話はたくさんあります。馬鹿げているから悲しい。フェアじゃないから悲しい。

誰か新入りが来るといつでも,僕は胃がムカムカしてきました。これはおかしなことで,それでも毎日,次々と誰かの上にこのおかしなことが起きている。

拘置所にいたうちの1人のムサイドは,拘置されて50日くらいになっていたけれど,何も言葉を発さず,誰とも口をききませんでした。ムサイドがしゃべろうとしないから,誰も彼の容疑を知らない。そして,これは僕が自分の目で見たのでなければ言わないことですが,ムサイドは40日以上にもわたって何も食べていない。僕たちは同じ場所で寝起きしていたからそういったことはずっと見ていられるのですが,房の人たちは彼を見ては何とか食べさせようとしたけれども,彼の答えといえば,「何も食べたくない」だけでした。
僕の頭がどうにかなったんじゃない,本当のことです,ムサイドは水を飲むだけでした。

yama fissign mazaleemということが,ほんとにわかりました――これはエジプトの格言で,獄中にある人の多くは実は潔白なのだ,という意味です。

自由の価値というものもわかりました。今は,窓から外を見たり,通りを歩いたりといったことだけでも非常におもしろい。自由に感謝するようになりました。

神様,どうかあのような大きな不正義のもとにある人々をみな解放し,家族や友人たちのもとに返してください。私たちは,必ずそうなるよう,私たちにできることをします。これを読んでいるあなたの助け,人権団体からの法的な助けや支援も大いに感謝しお受けしたいと思います。逮捕されている人々,占領されているイラクで毎日逮捕されつつある人々にいくらかの権利を得るために,私たちにできることはすべてやらなければならないのです。

posted by khalid jarrar at 5:46 PM
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Khalidが語る「こんな状況でした」……その4

拘束された事情が,拘束された当人の口から語られました。Khalid blogの30日記事より:
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とても長いので,何回かに分けて投稿しています。
その1
その2
その3
その4……この記事
その5

Saturday, July 30, 2005
2005年7月30日(土)

I found myself...
こんな状況でした

……前の記事(その3)の続き……

ムハバラト(秘密警察)に直接連行された僕はとても幸運でした。通常はムハバラトに連行されるには,警察署や国家警備隊のセンターを経由しなければならないのですが,そこでは標準的な拷問のプロシージャというのがあります。逆さ吊りにして何時間にもわたって電気コードで殴打する,電気ドリルで身体を傷つける,熱湯を浴びせ火傷を負わせる,手の指の爪を剥ぐ,骨を折る,鞭打った後で傷口に酸をつける,など。バグダードのゴミ捨て場で発見される死体には,目玉をくり抜かれたものすらあります。こういったことは何度も僕の知っている人に起きてきたし,僕と同じ房に拘置されていた人たちと一緒に拘束された人に起きた。同じ房に拘置されていた人たちはここに連行される前にこういった目にあっていた。拷問テクニックを列挙すれば長いリストになりますが,夜ちゃんと眠りたければみなさんはそれを聞きたくはないだろうし知りたくもないでしょう。

同じ建物の別のフロアに別の拘置所があります。そっちの方が規模が大きく,「あたたかなもてなしの城」と呼ばれています。(これを聞いて『1984年』のことを思い出しませんか? 「愛の省」とかいろいろありましたよね?【訳注:ジョージ・オーウェルの『1984年』。とりあえずwikipedia参照】)そこでは最近,ある父子が逮捕され,息子は夜の間に死にました。殴打され肋骨が折れていたところに身体に熱湯を浴びせられていた彼は,夜の間じゅう苦悶のうめき声を上げていた,そして死んだ,とアブー・アイイド【訳注:「アイイドの父」の意味】は話しました――私はうめいている息子の隣で眠った,と。アブー・アイイドについては後でもっと詳しく書きます。

拘置所の房にいた人に共通していたのは,スンニ派であるということです。ほとんど全員がスンニ派でした。尋問担当者は尋問の最中に被拘束者のひとりに対して「きさまらスンニ派は全員テロリストだ」と言いました。僕の尋問のときには,何度も人種差別的な言辞や質問がありました。シーア派イラク人で拘束されていた人たちのほとんどが,テロリズムではない犯罪を犯したとの嫌疑でした――窃盗,カージャックなど。

ところで拘置所での時間の過ごし方ですが……ご説明しましょう。

よくクルアーンを読みました。お祈りは1日に5回。食事は1日に3回。長い時間をかけて神を讃えることもしました。みなで座って話をし,ジョークを言ったり日常生活について話したり……。

夜になると,眠ろうとする一方で考え事をしていました――次のウェブログの更新では何を書こうかなと。

僕は常に,いつかは出られるという希望を持っていました。時間が過ぎるのは本当に遅かった。悲しい気分になると,ここを出たら行きたいなあなんていろいろな場所のことを考えたり,あるいは自分の気持ちを沈ませないようなポジティヴなことを考えたりしていました。みんなにも訊きました。「ここを出たらまず最初に何をしたい?」って。そして,自分のしたいことについてあれこれ考えていたわけです……食べたいもの,行きたい場所など。これは希望をつくるゲームでした。

……その5(未完成)に続く

Khalidが語る「こんな状況でした」……その3

拘束された事情が,拘束された当人の口から語られました。Khalid blogの30日記事より:
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その2
その3……この記事
その4
その5

Saturday, July 30, 2005
2005年7月30日(土)

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こんな状況でした

……前の記事(その2)の続き……

拘束されてから8日後,拘置所からやや遠いところにある法廷に送られ,判事と面会しました。法廷に到着すると,彼らは僕の足にも枷をつけ,手錠をされた手を腰につなぐ鎖をつけました。犯罪者扱いされて鎖をじゃらじゃらつけられて法廷に送られるなんて,と屈辱を感じました。涙が出ましたが数秒でおさまりました。誰にも気づかれないうちに気を取り直しました。

まず,法廷で働いている尋問官のところに連れて行かれました。尋問官は供述書が正確に理解されるように書き直しています。彼は,僕のケースでは法廷は公認弁護士をつけることになると言いました。それはどういう意味でしょうかと尋ねると,「いや何でもないです,ただの形式です」と彼は答えました。

彼は僕に,僕の「供述書」に署名するようにと言いました。それから安っぽい服を着た大柄でぽちゃっとした人を呼びました。この人は外から入ってきて僕の書類に署名しました。「弁護士・某」と。それからしばらく待って,僕はついに判事との面会に連れて行かれました。

判事は非常に上品な40代の男性で,エアコンの効いた部屋の豪華な机の向こうに座っていました。横にはパソコンが置かれていて,最新型の携帯電話もありました。部屋の外には警備員がいて,隣には秘書がいました。

最初は判事は僕を見ませんでした。判事は書類に目を通しながら僕に「事情の説明をしてください」と言いました。
「大学に学費を納めに行ったのですが……」と僕は答えました。
判事はいやそこはいいからという調子で「ウェブサイトですよ,ウェブサイトのことを話してください」と言いました。

「フォーラムです。ウェブサイトのオーナーが書いたトピックについて,人々が意見を交わす場です。僕はそこを訪問しましたが,自分の意見は投稿してもいません。サイトを閉じて,インターネットを閲覧できる場所を立ち去り,そしてここに連れてこられたのです。」

判事は僕の話を理解しているようでした。「チャットみたいなものですか?」と言いましたから。
「はい,判事。チャットルームというより通常のウェブサイトのようなものです。ただフォーラムの場合は,参加するのにログインする必要はありません。僕はただ単に,そのフォーラムがどうなっているのかを見ていただけです。僕にとっては,テレビのチャンネルを変えながら見ているみたいなものです。何をやっているかわからないけれどとりあえずあるチャンネルに合わせる。そのチャンネルがつまらなければ,別のチャンネルに変える。」

「まあそのへんはいいから」と判事は僕の言葉をさえぎりました。

判事は兄のウェブログのコメント欄を翻訳したものを37ページ分持っていました。それです,それが僕の容疑です。判事は僕に,「ここで単語と単語の間に奇妙な文字が入っていますね,これは何ですか?」と尋ねました。
「おそらくはプリントアウトをした人がフォントの選択を間違えたのではないでしょうか。言語と合わないエンコードを選択すると,こういう文字が出ます」と僕は答えました。
判事はコンピュータに精通しているというわけではなさそうでしたが,少なくとも,基本はわかっています。

判事は「では今日はお帰りください。書類は自宅に持ち帰って読みます。判断は明日下します」と言いました。

さっきのぽっちゃりさんが部屋に入ってきて,判事の正面のいすに座りました。このぽっちゃりさんが僕の「弁護士」ですが,一言も口にしなかった,ほんとに一言も言いませんでした。ただ彼が僕の弁護士であるという書類に署名しただけ。

それから拘置所に戻されました。これが水曜日の出来事。

木曜日。判事は僕は無罪との判断を下しました。判事は,プリントアウトされていたのは誰でも参加できるフォーラムであると理解し,また,僕が投稿したコメントもないことを確認しました。

その後,釈放されたのは土曜の朝でした。釈放の前に,強制的に書類に署名させられました――ひとつ,逮捕されている人々の家族に,彼らが逮捕されているということを伝えません。ひとつ,逮捕されている間に起きたことについては一切誰にも口外しません。また,拘置所の中で見たことについても一切誰にも口外しません。ひとつ,自分の知っている法律について,法を破る事例があればいかなるものでも当局に通報します(ここは笑いました。誰かが赤信号を無視して車を走らせてても通報するの?)。ひとつ,テロリズムのウェブサイトは訪問しません。

もちろん僕は,できるかぎりすべてのご家族に,息子さんはムハバラトに逮捕されて内務省の7階にいますと伝えました。そしてここでみなさんに,僕に何があったのかを洗いざらい話しています。またこれからも,自分の好きなだけ,興味のある間はずっと,ありとあらゆる種類のウェブサイトを訪問するつもりです。

……【その4に続く】

Khalidが語る「こんな状況でした」……その2

拘束された事情が,拘束された当人の口から語られました。Khalid blogの30日記事より:
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Saturday, July 30, 2005
2005年7月30日(土)

I found myself...
こんな状況でした

……前の記事の続き……

数時間後,ようやく,連行された理由がわかりました。大学の警備員が,僕がネットカフェで閲覧していたウェブサイトをすべてプリントアウトしていました。彼らは僕に「テロリズムのサイトを読んでいる」「外国人テロリストと連絡を取っている」との嫌疑を抱いていたのです。

「このページは何だ?」
差し出された紙を見ると,何と,兄のウェブログのコメント欄じゃないですか!!
僕は大学のネットカフェで閲覧しているときに,コメント欄を開いて,いくつかのコメントを読みました。でも投稿はしていない。しかしここの人たちはネットが何なのかをわかってないようで,それに英語もわかりません。というわけで,ひょっとしたら僕はアル=ザルカウィのアシスタントという重大な嫌疑をかけられていたのかも! あるいは自分自身のテロ集団を持っているとか……外国とのつながりもあるし!

僕はテロリズムの嫌疑をかけられました。彼らは,僕が彼らに協力していないから,自分自身を救おうとしていないと判断し,僕を拘置所送りにしました。
「協力って何を?」と僕は言いました。「お尋ねになっていることには積極的に答えているじゃないですか,何を知りたいのかピンポイントで言ってくださいよ」
「お前のグループのメンバーの名前を言いなさい。それから資金源についても」と彼らは言いました。

拘置所に入ると,中の人たちが興味深げに僕をじっと見詰めていました。でもまったく押し黙ったままで。
「どうもこんにちは!」と僕はにっこり笑って言い,ほかのみんなと同じように床に座りました。
「どうもこんにちは!」とみんなが言いました。
そのうちにひとりがついに我慢できなくなってこう尋ねてきました。「で,あなたはどうしてここに?」
僕は事情を話しました。みながそれはひどいという印象を受けたようでした。
その後の数分間で,ほかの人たちの話を聞きました。

と突然,思い浮かんだことがありました。「ここはどこなんでしょう?」と僕は教えてほしいなぁという調子で尋ねました。
全員が,ちょっとびくついた様子でした。彼らはここがどこかを知っているのだけれど,それを僕に言っても大丈夫だと思うところまでは行っていないのだと思いました。何しろまだ,ここに来て数分程度です。

するとある人が僕の耳にそっとひそひそと言いました。「イスティハバラット・イル・ダッカリヤ(istikhbarat il dakhliyya)……だけど私たちがそれを知っているということは誰にも言っちゃいけないよ。」『イスティハバラット・イル・ダッカリヤ』というのはつまりムハバラトという意味です。つまり諜報機関,秘密警察。
「うわっ」と僕は言いました。「ご家族はあなたがここにいることをご存知なのですか?」
彼らは頭を振って答えました――答えはNO。

部屋にはだいたい35人がいました。このフロアで逮捕されている人のうち4人は10代でした。後の方で彼らの事情のいくつかを書きます。

その日のうちにほとんど全員と仲良くなり,それから眠りました。長い一日でした。家族のことがとても心配でした。僕は自動車爆弾で殺されたのでもなければ誘拐されたのでもないと知らせることがどうしたらできるだろう? まさか家を抜け出して友だちとパーティに出かけたとか,サーカスに入ったとか思ってるわけはないし。

翌日,再び尋問室に連れて行かれました。

誰にでも訊けるようなありとあらゆる質問がされましたが,尋問は非常に迅速に行なわれました。彼らは僕の先生や友人の名前を書き留め,同級生や同じクラスの女子学生の名前も書きました。これまでにセックスしたことがあるかとも訊かれました。ありませんと答えましたが彼らは本当だとは思わず,それをネタに僕をからかって,女より男の方がいいのかとか訊きました。これにもいいえと答えました。

それから彼らは,最後に「供述書」を書けと言いました。この書類が判事のところに行って,僕の運命を決めるのです。

尋問係は言いました。「お前はテロリスト・サイトに参加していた容疑がある。(彼は,僕の見ていたサイトは若い人たちをテロリズムにリクルートするサイトだと言っていたんだったか? 覚えていません。)この点,どうだ?」

僕は目隠しをされた状態で言いました。「答えを言いますから書き取ってください。『完全に否認します。私は,世界中の国々から人々が訪れて意見を述べるウェブサイトで,ある特定のトピックに関して寄せられた人々の意見を閲覧するという民主的権利を行使していました。』」

尋問係は言いました。「それは一体何の話だ? 俺は作文をしてくださいと言ったか? え? 質問に答えやがれこの野郎! お前の容疑は,テロリストのウェブサイトを訪問していたことだ,答えは?」

僕は答えを繰り返しましたが,彼の頭でも理解できるように,もう少しシンプルな言い方で言い直しました。彼らは何かを書いて,僕に署名させました。

彼らの中に高校を終えた人がいるのかどうかもわかりません。粗野だし,倫理観も教育もない。しじゅう汚い罵り言葉を使っていて,それを聞けばどういう種類の人間なのかがわかります。僕が逮捕されたときに身に着けていたものについて彼らに尋ねましたが,携帯電話やIDは持っている,ということでした。しかし例の太った警察官が僕の眼鏡を壊し,お金もいくらか盗みました。この時点でも,携帯電話とIDは返却されていませんでした。

彼らは英語ができないから,ウェブサイトの内容についても一度たりとも聞かなかった――このサイトを読んだことが,僕の唯一の罪なのに。

3日目,僕は家族に,生きていて,内務省の7階にいるからと連絡を取る方法を知りました――「違法に」ですが。その頃までには,父がバグダードのすべての病院と警察署と死体置き場を確認していました。父はイラク軍にもイラクの民兵組織にも米軍にも確認し,内務省にさえも確認したのですが,内務省は僕がそこにいることを否定していたのです!

家族が僕の居場所を知ったということがわかると,非常に安心しました。健康状態は良好,食事もちゃんと取っているし,睡眠も大丈夫,それに誰も僕たちを傷つけていない,と僕は家族に伝えました。

……【次の記事(その3)へ続く】

Khalidが語る「こんな状況でした」……その1

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その5


Saturday, July 30, 2005
2005年7月30日(土)

I found myself...
こんな状況でした

寝る場所はお墓くらいの大きさのスペース。頭も足も壁に接していて,左右どちら側にも人間の身体が接している。つまり長い長い夜の間,ほとんど動くこともできない。12フィート(およそ4メートル)四方の部屋に35人が詰め込まれて,眠ろうと努力している。そしてケンカにならないよう身体をじっとちぢこめている。

すべての始まりは学費を納めに大学に行ったときのことでした。工学部のキャンパスは大学のほかの学部のあるメインのキャンパスから数キロ離れています。そういう学校運営サイドの問題のために,学生は本部まで行かなければならず,僕もそうしたわけです。メインのキャンパスに入って,学費を払おうと会計課に行き,あれこれと書類の記入を始めました。責任者の署名があれば書類作業が完成というところまで来たのですが,責任者は会議中。会計課のスタッフは,会議が終わるまでの1時間をキャンパスで適当に時間をつぶしていてほしいと僕に言う。そこで僕は時間をつぶそうと。

こういう場合,あなたならどうします? カフェに行く? 僕もそれはやってみた。けれど15分もしないうちに完全に飽きてしまった。で,どうやって頭の中に電球がともるみたいにひらめいたのかは覚えていないけれど,とにかくこれを思いついた――ネット! ネット以上に時間つぶしに適するものなんかないでしょう?

そういえばキャンパスの中にネットカフェがあったなあと思い出しました。この5年間というもの,こっちのキャンパスに来ることはめったになくて,来たのは3回か4回くらいだったと思う。ともあれ,そのネットカフェに行って,いつもの巡回を始めました。Raed in the Middle【訳注:おにいちゃんのウェブログ】,Riverbend【訳注:バグダードの女性のウェブログ】などなど……そうこうするうちにまた飽きてきたので,ネットカフェを出て,会計課に向かったのです。

その途中で,年をとった男性に呼び止められました。不快な顔つきをしていました。その人は「何かご用でも?」と言うのですが,僕はびっくりして「何かご用でも?って?」と返しました。その男性は「どこに行くんです?」と言いました。僕は,ああこの人は警備の人なんだろうなと思いました。でも声の調子から判断すべきだった,この男性は典型的なサダム政権下の警備員のようにしゃべっていた。
「会計課に学費を納めに」と僕は答えました。
「で,今までどこにいたんです?」
「インターネット・カフェに。」
「IDは?」
「大学の受付に預けてきてます,携帯電話と一緒に。」(これは現在普通のことです。すべての政府系の建物では個人の携帯電話は受付に預けなければならない。内部への持込禁止なんです。)

お読みのみなさんへ――こんなことを訊かれるからってくらいで驚かないでください。これは「サダムのイラク」では非常によくあることでした。そして今のイラクでも非常によくあることなんです。

ともあれ,この不快な顔つきをした男性は,僕が本当のことを言っていると確認するために,会計課まで付き添ってきました。会計課のオフィスに入ると同時に課のスタッフが僕に声をかけたので,男性も,僕が前にここに来たのだと理解して出てゆきました。僕はお金を払い,受領証を受け取って,会計課を出ました。が,キャンパスの受付に戻って携帯電話を受け取って帰ろうとすると,携帯電話の棚がロックされています――「誤ってロックされた」という説明でした。大学の受付ではその棚の鍵を持っている人を待っていました。「すぐに来ます」といわれました。

というわけで,僕の携帯が解放されるのを座って待っていたのですが,数分後,突然,誰かが来て言うのです。「拘束された男はどこだ?」って。

別の警備員が指差したのは僕!!!

僕はこう言いました。「えっと……何か誤解があるようですが,僕は拘束されてません。預けた携帯電話の入ってる棚が誤って鍵をかけられてしまっているだけです。」

「一緒に来てもらおうか。いくつか確認したいのでね」と彼らは言います。だから僕も同行しました。頭の中で答えを探しながら……。

彼らは僕の所持品検査を入念にやりました。靴を脱がせ,靴の中も調べました。腕時計まで取り外したくらいです。ポケットに入っていた紙切れはすべて読まれました。それから僕の出自や国籍などたくさんのことについての質問がありました。それから,携帯電話のロック機能を外して中身をチェックさせなさいと言いました。この時点でもう十分だろうと思っていたので,僕は,いやだ,このキャンパスのどこかにいて,メッセンジャーにこういう質問をさせている「誰か」の前じゃなければロック機能は外さない,と言いました。

この反応がいけなかった。

しばらくして別の男性がやってきて,「ネットで誰と連絡を取った?」と訊きました。
「母や兄弟と」と答えました。
そんな答えでは納得しなかったようです。
「拘束しろ」とその男性は言いました。

そしてどうなったかというと,とても太った警察官がひとり,その小さな部屋に入ってきて,壁に向かって立てと言い,また僕の所持品検査をし,僕のお金と眼鏡を取って,頭に袋をかぶせて手錠をかけました(僕の手にはまだ痕が残っています)。後ろ手にされて頭に袋をかぶされた状態の僕を,警察官は走らせました。だいたい1分くらい。到着した先は警察の車で,僕は強制的に乗せられました。車は動き出しましたが,行き先はわかりません……。

途中で僕が耳にした汚い罵り言葉に興味がある人はいないでしょうが,誰も僕を殴らなかったということはみなさんが知りたいところでしょう。

豪華な建物に――床の大理石を見てそう思いました――到着しました。このときに見えたのは床だけです。頭にかぶせられた袋と鼻の間のごくごくわずかなスペースから見えたのです。それからエレベーターに乗せられて,ある部屋に連れて行かれました。

すぐに拷問室に連れて行かれるかもしれないと思っていました。誰か話のできる人を見つけて,これはほんとにちょっとした,ばかげた間違いなのだと説明できれば,と祈っていました。

神が祈りに答えてくださいました。

地下の牢獄に連れて行かれるのではなく,たくさんの人がいるエアコンの効いた部屋に連れて行かれました。耳に入ってくる声から,彼らは誰かを尋問しているのだなとわかりました。この段階でも何も見えなかったけれど,手錠は外されました。

彼らが尋問している人物は(あとで名前を知ったのですが,サイーブという人でした。同じ部屋に入れられていました),非常に恐ろしいことをしていました。サイーブは内務省に行き,省の高官の事務室へ行き,ずっと昔にこの高官と一緒に使えたサイーブのお父さんのことを,この高官に思い出してもらって,どうか良いように取り計らってくださいと頼もうとしたのです。彼が頼んだのは,警官をしている友人を,別の州に転属させてほしいということでした。

内務省の高官はサイーブのお父さんのことを思い出さず,助けることはできないと言いました。そして警備員に,サイーブを尋問するよう命令したのです!!!

僕は結局は拘置所から出たけれど,サイーブはまだ拘置されていました。

彼らはサイーブを何度も殴り,「あんなふうに役人の事務所に入っていくとは,大したもんだ」などと言ったそうです。

エアコンの効いた尋問室に話を戻します。僕はまだ壁を向いていて,何も見えないようにされていたのですが,頭は絶好調で動いていて,目の前の暗闇の向こうを見ようとしていました。

僕の尋問の番になりました。:))

「ついにきた!」と僕は思いました。

彼らは僕に尋ねました。「お前はロンドンの爆弾とどういう関係がある?」
「はぁぁぁぁ???!!」って感じですよ。
「ロンドンの爆弾???! 何もないです!」と答えました。

ガツン!!

首に重い手が下ろされましたが,僕の頭は考え事でいっぱいいっぱいで,痛みは感じませんでした。しばらくのあいだ,首がびりびりしていました。

「吐けぇっ」と男は言いました。

「こっちを向け」と怒鳴りました。

僕は向きを変え,壁ではなく部屋の方に向かいましたが,見えたのは自分の鼻と僕を尋問している人物の靴だけ。彼は至近距離に立っていました。

「お前,ひげを生やしているな。なぜだ?」と彼は訊きました。

「預言者が……」(預言者ムハンマドもひげを生やしていて,それがかっこいいと思うから……と言いたかったのですが最後まで言わないうちに)

バシン!!

彼は僕の顔に平手を食らわせました。とても大きな音がしたので,しばらくの間,部屋は何も物音がしなくなりました……。

「罰当たりめが(May the prophet curse you)」と彼は怒鳴りました。

ここでも,僕の脳は痛覚信号には反応しませんでした。痛みは感じませんでした。

その後数時間,彼らは僕に次々と質問をしました。「お前らのテロリスト・セルのメンバーにはほかに誰がいる? 資金はどこから来ている? どういう作戦をやってきた?」

「お前,シーア派に文句があるだろう?」
「ないですよ,うちの母はシーア派です」と僕は言いました。

「クルド人に文句があるだろう? 自爆してクルド人を殺したいんじゃないのか?」
「クルアーンでは神は……」(クルアーンにある,罪のないものを殺してはならぬと神が命じている箇所を述べようとしたのですが……)

彼は途中でさえぎって,「クルアーンのことなら我々はお前よりよく知っている」と大声で怒鳴りました。
「僕の親友はクルド人です!」と僕は言いました。
「そうだろうそうだろう,それでお前はクルド人についての情報には困らないわけだな」と彼は答えました。

僕が何を言っても彼らには通じない。彼らが何を言っても,世界の誰にもわからないでしょうけれど。

数時間後,ようやく,連行された理由がわかりました。大学の警備員が,僕がネットカフェで閲覧していたウェブサイトをすべてプリントアウトしていました。彼らは僕に「テロリズムのサイトを読んでいる」「外国人テロリストと連絡を取っている」との嫌疑を抱いていたのです。

「このページは何だ?」
差し出された紙を見ると,何と,兄のウェブログのコメント欄じゃないですか!!


*すいません。パラグラフの途中ですが,ここであまりに気が抜けたのでちょっと小休止します。続きは次の記事でどうぞ。 【“Khalidが語る「こんな状況でした」……その1”の続きを読む】